さては正体は生物だったのか!!!


今、カテドラルの前で寝転んでます
アルベルゲが懐かしい
あの毎日歩き続け、
景色が変わり、人間が変わり
ムードが変わる
同じもんが続かないって好きなんやろな

暑さの中では自分の身体と向き合い
他人とのかかわり合いの中では
自分の受け身スタイルに気づき

私らはカミノを歩くことで
自分を見せてもらってるんとちゃうかな?
自分が好きな自分と
自分があんまりすきじゃない自分
反応せざるをえない出来事が日々起こり
妥協せざるをえない状況で
ルールの確かめ合いをしながら
ルールの種類を学ぶ

集団の中で朝になり、一日を始め
歩き始めると一人ぽっちになる
自分との対話が始まる
そして調子を考え始める
足の調子、おしっこの調子
アルベルゲまでの距離の計算
歩くのやめたら着かない
まずは進んで
夜寝るとこまでたどり着かんといかん
なんか食べとかんとあかん
洗濯もして服乾かさんとあかん

単調じゃない
常に色んなもんとのかかわり合い
昔はヤコブの墓にたどり着く為
今は自分の全神経を
人間としての色んな機能を使う為に歩くんちゃうか?

第三回目のカミノで
何か発見や不思議なことがあるか楽しみにしてた
チェコ人ジプシーとの出会い
愛しのMatavenero
そしてしめくくりに考えたこと

カミノは色んなもんくれる
そういえばアストルガで会ったおじさん
知り合いの日本人がカミノを歩いた後に
失明したらしい
カナダからのペレグリーノ家族
パパが転んでまぶたから血を流してた

カミノは与えてくれるし
私たちは手放すこともへっちゃらになるように
学ぶんかもしれん

カミノはプレゼント
カミノは人間であることを思い出させる
カミノは手放しでいること
何者でなくてもいいことを教えてくれる
カミノは歩いてゴールすることが
目的や答えなんかじゃなく
道の中に、自分しか感じれない
自分しか体験できない
自分の人生にしか
起こりえない出来事ってのがあって
全ての瞬間が自分に必要なもんで
それをカミノの上で
繰り広げさせてくれるステージなんとちゃうか?
そこの上に、カミノに身体をのっけて、動かしてもらう
出演者、セットがコロコロ変わり
それを体験し、その体験も一人一人違って
何をどう見るか、自分の中がどう反応するかを
それをカミノがプレゼントしてくれてる
そのプレゼントを受け取り
それぞれが体験して感じることを
カミノ自身が楽しんでるんちゃうか?
カミノがみんなの体験を見て
”おぉ、そんなんもあるんかぁ!”とかいうて
一人一人の映画をカミノは見てるんちゃうか?

人間、神様、自然、宇宙は
区別がなく、区別をしようとしよまいが
実は全部どでかいなにかなんかもしれへんな

おしまい!


おばけより恐いスペイン人巡礼集団


それはアルベルゲ プリバド(私営、10ユーロくらい)でのことだった
10ユーロ払うのでさすがにトイレもきれいし、全部そろっている
早めについてのんびりしているとやってきたのはスペイン人ペレグリーノ達
若者組と中年組、二つのグループが流れ込んできた
中年組10人くらい、若者組、どうやら学生と先生のよう

ちょっと台所とかどないなってるんかな?と思い
Cocina(台所)をのぞきにいくとそこには中年のおばちゃんたちが料理をしていた
その中の一人のおばちゃんに、”何!”っと恐い顔して聞かれた
私のカミノ日記には”ちびこい不細工なおばはんが言うた”と綴られている
私もかなりムッとしてたんやろう
そして”ちょっと台所どんなんか見てるだけです”と答えると
そのおばちゃんの仲間はニコッと笑ってくれたので気が静まったけど
不細工なおばちゃんに告ぐ、”アルベルゲはあんたの家とちゃう”

ひきつづき若者グループ
彼らがやってきてから一気にトイレが汚れ始めた
トイレットペーパーは床にベチャベチャにくっついた状態
ウンチも便器につけっぱなしで洗わない
私たった一人だった部屋に40人くらいのスペイン人若者達がやってきて
ちょっとご飯食べて帰ってきたら、私のベットの上に3人ほどのっかってた
箕面の猿山を思い出す
先生はなーんにも注意する様子無し

これも私の心の広さを試す、何かの実験だと思い
気を取り戻す
そして夜中の1時半にメール着信音が響いた
心のサイズ0.1mmに収縮

次の日私はは朝の6時起き7時前に出発
12kmくらい歩いてバルで珈琲飲んで一休みしていると
やってきたのは例の若者軍団
えらい早いことやってくるのが不思議やったら
リュックをかついでいない
10kg相当あるはずのリュックを持ってない
手ぶらや!それは散歩や! 

そしてそのバルも彼らに完全包囲されたので逃げ出した
彼らのリュックは車で先にアルベルゲに運ばれていた様子

これもカミノ
批判しない、批判しない

おかげで次の日よく眠れました


やる気のある肉、ない肉

プルポとはスペイン語でタコ
Melideに有名なタコの店(プルペリア)がある
ほんで本に載っていたプルペリア”Ezequiel"に向かう










入り口に、タコをゆではる人
ゆがきたてのタコを切って
お皿に載せて、オリーブオイルかけて
パプリカと塩をふる人がいる
そこで”1人前!”とか頼んでお金払って(5ユーロ)
奥に入ってテーブルを見つけて食べる


飲み物は、近くに店員さんが来た瞬間に声をかけて頼む
その場で飲み物代を払う
隣の地元の人らしきおじいちゃん二人組は
珈琲を頼むのに相当時間かかってた

注文システムを理解するまで
かなりドキドキしながら観察してたけど
プルポは日本並みにおいしかった
しかも大量
このプルポのおいしさはこのMelide のEzequiel 以来
スペインではお目にかかってない
Ezequielから3日連続プルポを食べ続けた感想です
ガリシアはマドリッドで食べるよりも断然安い
しかしEzequielがいっちゃん安かったしおいしかった

タコの肉にやるきがあるかどうか
それが問題だ




このボカディージョおばあちゃん風味


犬にびっくりさせられたり
鶏に笑わされたりされながら歩いて
足の中の熱さに堪えきれず
民家の角の石の囲いの上に座って靴下を乾かしていると
民家の犬、子犬が二匹近寄ってきて
何か貰えると思ってジーッと見られた
めっちゃ可愛らしい子犬
でも、”あげたいけどあげるわけにはいかんのよ”と言いながら食べてると
中から飼い主のおばあさんが現れた
ほんで会話が始まり、おばあさんは
”次の町から先は何も食べるところがないよ”って言うて
パンにチーズをはさんだボカディージョをくれた
私も持ってたキウィを”3つありますから一つどうぞ”と
言うてみたが”いらないよ、食べなさい”と遠慮された

”チーズおいしいですね!”と言うと
”そのチーズとパンはサリアまで行って買ってきたんだよ
おいしいだろ”
って言うてはった

たまたま勝手に玄関先に座ってた私に
食べもんくれるなんて
こんなことがあったりするのよね
あのおばあちゃんには直接お返しできんかもしれんけど
私もどこかで誰かに同じことするね

プッチンともいわないプッチンプリン


カミノの歩いてると、これを料理の一部と呼ぶのかい?
と思われるデザートに出会う
そういえばレオンで知り合った枚方出身のマサ君は
デザートにフルーツを頼んだところ
真っ白なお皿の上に
コッローンとリンゴ一つそのまま転がされてた
私は確かなんかのTarta(タルト)を頼んで
マサ君には悪いけど、私の方は気分よく食べさせてもらった
しかし、私これあんたの家族か?って言たなるような
冷蔵庫からそのままやってきた袋入りのアイスクリームや
プッチンプリン風のダラーンとした、入れもんはいりっぱなしのプリンを
真っ白なお皿に、スプーンやフォークを添えて出される
マサ君のりんごはナイフ付き
ティラミスとかもあったりするけど
それが冷蔵庫の空気の味がしたりする

おいしいのんメインの後でこの体験は
目が3cmくらい大きくなりそう

いろいろいろいろ



ブラジル人夫婦のアルベルゲに泊まる
ここまた不思議空間
旦那さんが熱く語る
森田健作を思い出させる

近くのバル エスパニョールの
膨らみきったおじさん(太った)が話しかけてきた
”明日、一緒にカミノを歩こか?何時に出るんや?”
”一緒に歩く気はないけど、7時30分には出ます”と答えると
”10時にしよう”と提案された
ちょっと前に昼ご飯食べたとこの兄ちゃんがやって来てて
それ聞いて笑ってた

昨日は老人ホーム前のおじいちゃんも
”Guapa, guapa."って言いながら後をついてくるし

まぁこんなんもたまにある

せや、絶対忘れたらあかんのが
Vega de Vacarce にあるパナデリア(パン屋)
めっちゃめちゃおいしい
何故かクレデンシャルに判子押してくれる

親切川


Cacavelos の手前の川で
70歳くらいのおじさんと話し始める
昨日はえらかったぁと話してると
どこからかおばあさん二人登場
4人での会話スタート
足が痛いとチラっと言うと
”それならば救急病院があるから
今からでも行けるよ”と
大丈夫だというと
”無理せんでも、明日は少しだけ歩くか
それかまたここに戻ってくればいい”って
そんなことを普通に、そない思って言うてくれる
なーんて愛おしくなれる人たちやろか
人と関われることを感謝します

Cacavelos  のアルベルゲは閉まってたので
Hostalに20ユーロで泊まる
部屋の窓を開けると
どっかの家族が一家団欒で食事をしていた
窓の外は他人のベランダだった

ほんまはベロベロやろ



Ponferrada のアルベルゲのおっちゃんは
イギリス人をのぞき
みんな厳めしい面構えで待ち構えてる
無愛想とはこういうもんだと実にうまく表現している

でも恐い顔してるけどほんまは優しいんやろ?
とバレている
私には見えるぞ
孫の前ではベロベロになってるのが

そんで、おっちゃんオスピタレロの一人が
恐い顔のままではあるが
私の足の肉刺の水を抜いてくれた
というか、刺された
昨日のフォンセバトンのおじさんは痛くなかったけど
この苦虫潰した顔親父は刺した
”痛!!!”って言うたら、”動くからや!”って言われた。
痛かったから動くんや!血も出てる!
でも、その分けわからん理屈もよしとする

持続力10秒の活力剤


フォンセバトン7時30分発
珈琲飲みたかったけど
ガスコンロのつけ方がわからずしょんぼり
オスピタレロのおじさんは寝てたのであきらめる
おじさん、嫌々魂が上手に表現されてるよね

Ponferradaまでえらかった
途中でサンダルに履き替え
これなら何十キロも歩ける!と思ったら
3時すぎから暑さに参る
とにかく暑すぎて
”何がカミノやねん!くそカミノ!”
とまで言うてしまうくらい悪コになる

暑すぎるっていかんね
一人の青年にヘロヘロになってるのを察知され
”もう少しだよ”と元気づけられ
10秒ほど元気になり
矢印通りに行ってたら教会にたどり着き
アルベルゲはもっと手前で右に折れるべきだったと知り
かなり怒り度が上がり、体温も上昇

暑いと心が狭くなる
これってだれか研究してくれへんかな?

ちょっと待っててやMatavenero

フォンセバトンから片道8km
カミノのルートから外れてまうけど
前日に知り合ったチェコ出身のジプシーの男の子に再会し
一緒にMataveneroに行くことに

彼はその村に家を建てるらしい
家を建てるのに、何故か背中にはギターをしょっている

Mataveneroはヒッピーの村らしい
昔はジプシーの村やったとも言うてた

不思議な村やった
全て手作りで出来た家
1泊2泊やったら泊まっていってもいいらしい
みんなで使うサロンのような家があって
そこに台所があり、ゴロンと寝れるところもあった

子どももおった
オリジナルマタベネロ学校に通っている模様

不思議村からの帰り、道がないので迷い
ここで死んでも長いこと見つけてもらわれへんねやろなぁ
と想像しながらもなんとか戻る

スペインの中にありスペインじゃないMatavenero
そんで必ずもう一回戻ってこようと決める

動物王国フォンセバトン

フォンセバトンの教会泊
トイレ&バスには線虫らしきものが出ます
壁も這って登れるので困ります
オスピタレロのおじさんはなんか悲しそう
冷蔵庫にはバターと飲みさしのミルクだけ
3日前からオープンしたらしい
嫌々やってはるんかな?
テーブルも拭いてないし、多分嫌々と見た
(後から聞いたらおじさんは、前はブルゴラネロにおって
フォンセバトンと大違いなのでしょぼんとしてる様でした。
昨日は一人もペレグリーノがいなかったって。)

ここフォンセバトンは
動物園のように色んな動物が登場する
犬x3匹 道に寝転ぶ
猫と犬が入れ替わりでアルベルゲの門番をする
カランコロンと音が聞こえヤギの登場
アヒルも道のど真ん中で寝る
モーモーと牛
写真を撮ろうとヤギを追いかけると
犬があとから着いてきた
アヒルの写真を撮ったらアヒルも後から着いてきた



Un regalito del sol.


恨みも仕返しも裁きもなく
人のものを盗んだりすることや
権力や支配力を強くすることなんて
なんの意味もなく
そんな欲を落とせるとき
全てはそこにあるだけ
(太陽を感じてたら閃いた)

しみ込む


歴史とは長編大作で
監督がおらんで
全人類が出演者で、創作者で
どないにでも物語をつくれる
監督がおって、どっかに司令官がおるって発想は
こぢんまりした見るもん見えてない考えで
もっと細かいところから
最小のところから最大のところまで
関わって生まれるのが
ほんまの世界の物語なんとちゃうか?
最小と最大が同じ意味になるとき
善と悪と、醜と美が
同じになるとき
個体が透き通って重力にしばられない
次の科学の時代がやってきて
全ては別々で、全ては一つで
全てはバラバラで、全てはつながっていて
何にも大したことはなくって
全てが大切なことで
そんなことが風に流され
そんなことが世界にしみ込んでいったら
すんごいもんが見えるんやろうな

物語の出どころ


家族のこと、お兄ちゃんのことを考えて思った

”もの言わんひとほどものを言う
たくさんのことを伝えれる”

それを受け止めれるかどうかは
こちら側の感度の精度やけど

星や月や太陽や
山や木や川を見て
人が物語を伝えれるのは
人が言葉になる前の何かを
読み取る力があるからなんやろな

ほな続きいこか



歩いて二日目くらいは、暑いし、足痛いし
日本におった時に”気”の騒がしさが拭いきれず
なんでこんなところに来たんか?
最後の日にCaminoを恋しくなるなんてことがあるんか?
スペインが何だ!何か特別なことが起こるのか?
信じるなんて、何かの妄想ちゃうんか?
一生懸命何かを聞こうと
何かを見ようとして歩いて
何かが聞こえたように思ってるだけなんちゃうんか?
便秘にもなるし、フランス人ばっかしやし
フランス人、何言うてるかわからんし
何か特別なことを望みすぎてる自分も落ち着かんし
って、気持ちがCaminoに移り込んでなかった

今、後1日、Leonまで
さーぶいし、雨降ってるし
洗濯しても服乾かへんから、
体温で乾かしてるし

ほんで今、Barで泣いてます
何ですかねこれは
ちっとも変化の無い大地
暑いか、雨降ってるか、寒いか
一日中歩いてるだけ
痛みはあるけど
苦しみはあるけど
緊張は無い毎日
言葉を伝える時の緊張はある
道を間違えるわけにはいかない緊張もある
朝、スタートする時間も
洗濯のこと考えなあかんことも
服のチョイスもあるし
トイレのことも色々

何やろなこの感謝の気持ちは
Burgo Raneroのおっちゃんの声
Hontanas のオスピタレラのおばちゃんの温かさ
それに村々で声をかけてくれた人たち
みんなに神さんが宿ってるな
そう、みんなに神様が宿ってる
スペイン人の中にも日本人の中にも
うちのお父ちゃんにもお母ちゃんにも
お兄ちゃんとこの家族みんなにも
今、Barに入ってきたおっちゃんにも
みんなが神様みたいなもんやと思ったらいいねんな

何かいいこと言う人だけが、いい人ではなく
嫌み言うて喜んでる人も
聞くに堪えない会話をする人も
全ての人が、全ての事象が
物が、生き物、草も石も
全てに神様がいると思えば
受け入れることができる

”あなたもCaminoになれますよ”
”受け入れてあげることができますよ”
今、つながったな
何かに近づいてるような気がする

巨大化



大げさに考えるのは
”夢”だけにしよや
大げさに思ったるのは
”希望”だけにしよ

(写真:つくんのめんどくさいんか!
と思うくらいにでかいアスパラ
それがえらいおいしい)

なんも言わんといて!やっぱり言うてもいいけど...


”田舎の方がええわ
ここ(Mansilla)は中途半端にとかいすぎて
おもしろくない” って思った
寒いし、ずーっと降ってる雨がそう思わせたんか?
おばちゃん達がBarに入ってきてベラベラお話し始めた
このムード、何かを思い出した

街はずーっと前からそこにあり
私は旅人で
えらそうなことを何も言うたりでけへんなって
ここには何十年も、何百年も前から
人の暮らしがある
それは私が何か言うたとしても
何も変わることなく
私が何も言わんかったとしても
何かが変わっていく


ほんだらそないするか


私は架け橋になりたい
悪人と善人の
私は架け橋になりたい
おとなしい人と、うまいことやってる人との
私は架け橋になりたい
分かりたくても分からない人と
分かってもらいたいのに分かってもらえない人との
私は架け橋になりたい
分かるとか分からんとかいう発想もクソもない人と
ちっとも分かってもらえなくて
生きる力をうしないかけてしまいそうな人との
間をくっつける、二つともの面を理解してあげれる
そんな架け橋になりたいなぁ

洗濯機の中で


今日はさぶかったし雨も降ったけど
ものすごい風で
全てを洗い流してくれようとしてた

古い概念に捕われないこと
洗濯やね

たくさんの人たちが
何か古いもんにしがみつくことで
安心感を得ようとしている

そんなんは大災害が起きた時には
全て吹っ飛んでしまうことを
地球が教えてくれてるのか?
自分の番にならんとわからんのか?

そびえ立つ十字架


私のおでこには、十字架が立っている
私のおでこには、神様の目がついている
私のハートには、人々を感じるハートがいつもある
私のおへそには、世界を吸い込む穴があいている
その穴が行き着くところは
宇宙の古里みたいなところで
みんな全てがそこに吸い込まれて
そこんところを育んでいくための装置みたいなもんがあって
みんなどっかでくっついてて
みんながそれぞれの役目を果たしてて
それは、物乞いとして生きていても
人々に輝きを、ひらめきを与える者であったとしても
ガンジーのように、ゲーテやブコウスキーのごとく
人々にBIGに影響を与えるものであったとしても
人々に悩ましさを与えるものであったとしても
それはすべて神の祝福を受けた者であり
我々に何かを学ばせようと
がんばってくれてるねん

(ほんでなんで十字架って書いたんやろ。
熊野古道歩いたら、なんて書くんやろか。)

わかったそないする


教会の中でキリストが横たわっているのを見て
やっぱりこれは
私たちが、今度はキリストになって
地球を救う番なんちゃうか?って思った

ほんでまた言うてる

”許してあげることにより、開かれるもんがある”


ーバルにてノートを書き続けるー
Tracy Chapmanがかかってるよ

愛がいつもそばにあることを信じ、感じ
”受ける”ことを学び、自分に許すこと
人に与えられることを受け入れなさい
愛の存在を信じなさい

Tracy Chapmanやで



得意なことバレてる


”あなたは人に希望を与えることができる人なんですよ”

”恨んだり、憎んだりするより、許してあげることで
敵対する人もあなたの味方になりますよ”

”あなたは許してあげるのが得意でしょう”

カラカラになりながら泣いた

見るのをやめた時、聞こえてくる


何か特別なことを望んでばかりいても
何も起こらず、何も見えない
曇りが無くなったとき
見えてくるんやろな

ほんで必死こいて見ることをやめたときに
なんか聞こえてくる

”ここはCaminoです。Caminoを信じなさい”
と聞こえてきた

そんときおった蝶が天使かもしれんと思った

Muchas gracias.



忘れんようにしよう
人生はCaminoにあるだけでもなく
目の前にある仕事だけでもなく
孤独であるのが一番でもなく
誰かと一緒じゃないといけないこともなく
触れるもの、出会うもの、感じるもの全てが
私にプレゼントしてくれて
私をどないか応援してくれているってことを
全ての人やものが
全ての人やものに祝福されている
そない感じることが出来る世界を
とりもどそう

道具なしで



誰にでも出来ること
奇跡は誰にでも起こせる
信じることは不気味なことでもなんでもない
不確かなことは確かなこと
応援したいな
あともう少しでパカっとフタを開けれそうな人たちを
ほんで、いつか、どんな人でも
どんな固く閉まったフタの人でも
開けれるようになりたいな

垢が落ちたような気がする

必死こいて


カミノでは
互いに外国人どおしが
必死になってわかりあおうとする
あの”必死さ”がいいねんな
必死さが

生きてるうちに入るんか

イエスの受難って
キリスト教の人たちにとっては
人類の罪を背負いはったことになってるかもしれんけど
私には21世紀に生きてる私にとっては
あれらの受難のシーンを見せることで
イエスは、”痛み”というものを
イエスが背負ったものを
二度と誰にも
背負わすことのないようにと
強く、強く、強く
伝えようとしてるんじゃないか?
他人事ではなく
今すぐに
誰かを、何かを傷つけるのはやめようと
言っているんじゃないか?

すべてを自分の中のもんへ
つなげてみる
表層だけで生きてるのは
生きているうちには
入らんのじゃないか?

お世話になりました


(ホテルの女の子と少し話して)

少しの会話がお互いの中に
小さな花が咲いて
ニコッと笑って
それ以上のことがなくっても
うーれしい気持になるねんな
いっつも開いておきたいな

EstellaのMonasterio de San Benitoの
Monja(シスター)が言うてた
”いつでも誰にでも門は開かれてます”
という言葉が浮かんでくる

心がけよう
私もそんな風におりたいねん


なんとなくやけど まちがいなく


”人が人をほっとかない” っていう
BASIC なルールが流れてれば
HAPPINESS  が増えるんやろうなぁ

よしとする


寂しくなることはいいことだ

何かがあってこそ寂しくなる
寂しくってどうしようもないことが
だんだん薄れていって変化していく
消化されるんかなぁ?
自分の一部になるんかなぁ?

春夏秋冬のように変化する
”変化”があるんですよねぇ

あっ、今何か落としましたよ


今、夜の10時です
BARに子どもが入ってきて
大きな声でお母さんと話してる

外国に行くと、色んなことが崩されるのがいいな

何が正しいとか正解とか
それは ”ところ”によるもんやってことが分かって
あらためて分かっていいね

多くの日本の人たちは
崩さなあかんもんがある
落とさなあかんもんがある

落としてからそっから次にいけるねん
いらんもんが
血の中にも、体の中にも、脳みそにも
HEARTにも
くっついて、つまってるねん

一体どこ行きたいねん


キリストの受難の絵は涙が出た
あんなに痛めつけられてる姿を
教会の中で見ているのが
なんでかわからんかった
人間が、わたしたちが
なんであんなことができるのか

今、わたしたちができること
その受難の姿を見て
わたしたちが決意することは

今、現実に
誰に対しても
何に対しても
そんなことはしないと
決意することじゃないんか

キリストが受難にあったのは
わたしたちに、わたしたちの愚かさを
繰り返し見せて
気づかせてくれるために
あるんじゃないかと

聖書の中の話は
今、生きている、”今”に
”今”とくっつけて進んでいかんと
どっこにも行けないんじゃないかと思った